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勇往邁進する

ぱり僕は逃げ出したく

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ぱり僕は逃げ出したく

僕は何か言葉にもならないような返辞をしながら、のろのろと立ち上った。古い、虫の喰った坐り机の上をダイダイ色の電燈が照らしている。その垢《あか》じみた、ねばっこい机のヒキダシの中に、立ちすくんだ裸身の少女と中腰にそれもん》がひとりでに縮まり、膝《ひざ》をそろえて坐った脚がこわばってくる。
「吉松……」と倫堂先生が顔を上げて言った。「これがA組の野村の答案だ。おまえのとよく較べてみろ」
「…………」
 赤インキが方々ににじんだのと、細い鉛筆の字がかっきりとマスにはまったように並んでいるのと、二枚の藁半紙《わらばんし》が並べられたのに目をさらしながら、しばらく僕は何を言われているのかわからなかった。
「恥ずかしくはないか」
「はア」
「おまえと同じ学年の生徒だぜ……」
「はア」
 僕は機械的にこたえながら突然、拍子ぬけのような安堵《あんど》がやってくるのを感じた。——和尚さんは、僕が房江にしたあのことをまだ知らない。——僕は書棚にかこまれたこの暗い部屋のどこからか、ふっと援《すく》いの手が差しのべられたような気がした。
「このごろは、どうなんだ。すこしは前よりも勉強しているか。他の科目のノートも持ってきて見せなさい」
 僕は、ほっとするあまり、まるで讃《ほ》められた生徒のように自分の部屋へ小走りに駈けこむと、カバンごと倫堂先生の書斎へ持ってきた。
「どれ……」
 先生が手を出しかけたときに、僕は差し出したカバンを畳の上に落した。蓋《ふた》がひらいて銀貨や銅貨があたりに散らばった。それは僕が買い食いや講談本に費《つか》った金の釣銭を何の気なしに収《しま》っておいたものだ。
「どうしたんだ」
 先生はむしろ狼狽したように僕といっしょに畳の上の貨幣をひろい集めながら訊いた。僕は金のことだけは正直に、学校へ収める金をつかいこんだことをこたえた。
「馬鹿」
 はじめて愕然《がくぜん》としたように先生は顔色を変えると、ドナリつけた。金をつかいこんだことは僕が思っていたよりは中学校の生徒としてはよほど重大な過失らしかった。しかし、いまの僕にとってはそれは何でもないことだった。こんなことで先生にどれほど怒られようと僕は気が軽くなる一方だった。まるで体の中に吊り下げられていた錘《おも》りがはずされたように、ふわりと身が浮き上りそうにおもえて僕は、これですんだ、これですんだ、しょうべんはやっぱり途中でもらさずにすんじまったんだ——、と胸の中で、濡れた体のまま銭湯の便所へかけこむときのスリルを憶いうかべながらくりかえした。
 夏休みには、僕は家へかえってくらすことになった。——これは他の生徒とは反対だ。ふつうは夏冬の休暇は大部分、学校の海の寮で団体生活をさせられることになっている。僕には家でも、お寺でも、学校の寮でも、たいした変りはなかった。海の寮ではブルドッグが僕を追いまわした。作業の時間があってモッコで土運びをさせられる。木蔭《こかげ》でひと息いれていたら、うしろからやってきたブルドッグが、
「こら、そんなところで何をしている。もっと自然にしたしめ」
 と言うから、僕は「こうしてナマケていることが、ぼくにとっては自然なのだ」という意味のことをこたえたら、ブルは本物のブルドッグのように歯を剥《む》いて怒り出し、僕をむちゃくちゃに殴って倒したうえ、大きなお尻で僕の体の上に馬乗りになってまた殴りつづけた。だから海の寮にくらべれば、どんなところだってマシだとはいえる。しかし、お寺にこのままいろと言われたら、やっぱり僕は逃げ出したくなっただろう。日当りの悪い納戸の奥の部屋は、夏になるとおそろしく蒸し暑くなった。便所の汲《く》み取り口に面した西側の廊下の雨戸をあけてみるのだが、風はとおらず、逆にジメジメした家じゅうのうん気が折り重なって僕の部屋に侵入した。……だが、僕がいたたまれぬ思いをするのは、うん気や暑さのせいではない。あの房江との散歩のことがあるからだ。あれ以来、もう女の子を外へつれ出すことだけはよそうと決心した。それが良くないことだと気がついたからというより、もうあんなことはさすがに僕にもちっとも面白くなくなっていたからだ。しかし悪癖は決心だけではやめられない。ちょうどお寺では一年じゅうで一番いそがしい「お施餓鬼《せがき》」がちかづいており、倫堂先生をはじめ家じゅうの人は、その準備でおおわらわだった。弁天堂の仏壇のわきの古い大きな木の箱の中にしまわれてあった幕だの、赤いころもだの、銅鑼《どら》だの、といったものが縁台の上にひろげて並べられ、あたりは腐ったような強い黴のにおいでいっぱいになる。電話のベルが朝からいそがしく鳴りひびき、ほうぼうのお寺から坊さんが招《よ》び集められるやら、ひとの出入りがはげしくなる。そんななかで、誰からもかまいつけられなくなった房江は、僕の顔さえ見れば「さんぽに行こう」と誘いかけてくるのだ。僕はそれをどんな顔をして断ればいいのか? 結局のところ僕はまた同じことをくりかえすだけだが、それは愉しくも怖ろしくもなく、ただ後にやましさがのこるだけのものだった。
 そんなわけで僕は休みになると早々、むかえにやってきた母親につれられて家へもどった。
「寺から、さとへ——」
 と、母はちょっとの間にまた背丈《せたけ》ののびた僕の顔をながめては、何度となくくりかえして、歌うように言った。僕は、そんな母のはしゃいだような態度が気にくわ
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